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恭子ちゃんβコラム・総集編(推考中)
みなさん、はじめまして、森田森魚です。
え?初めてじゃないって?毎回この冊子にコラムを連載してるじゃないかって?
ところが今回のぼくは生まれ変わっているのです。前回までの「旅人」の森田森魚とは違います。ぼくは漂流するうちに、自分が身を置くべき場所をついに見つけたのです。
それは「陶芸」という世界でした。おこがましく宣言させてもらえば、ぼくは陶芸家になるのです。その修行のために、愛知県瀬戸市という、せともの発祥の地(あたりまえか)に居を移しました。
もう車を拾う必要はありません。なにしろ自分の居場所に行き着いたのですから。今はろくろの前にどっしりと尻を据えて、土と格闘しています。ぼくは、自分のさがしものが、この目の前にあるねとねとの土くれであることにようやく思い至ったのでした。腹をくくって、ものつくりに取り組んでいます。
ここは陶芸の学校です。粘土いじりに多少の心得はあったものの、その道の基礎を経ていないぼくは、知識と技術をもう一度自らの根幹に叩き込むために、まずは実地の場よりも、学校という場所を選んだのでした。
平均寿命の半ばに踏み入ってからの方向転換には逡巡がありました。しかしどうしてもこの最終コーナーを曲がりきらなければゴールにたどり着けないとわかったので、ぼくはツマを説得し(うん、いいよ、とあっさりと許可が下りましたが)、単身でこの器の町に乗り込んできたのです。
久々のシングルライフを満喫する間もなく、厳しい修行生活がはじまりました。この学校では、制作実習のことを「くんれん」と呼び、完成した作品を「せいひん」と呼びます。世に出て陶磁器制作だけで食っていきたい人々のために技能を叩き込む、いわば職業訓練校なのです。揃いにあつらえられた囚人服のような作業着を着て、朝のラジオ体操から、夕方の戸締まりまで、みっちりと陶芸づけにされます。それはまさに望むところなのです。
面白いことにこの学校は、学費も実習費も、さらには材料費まで(つまり一切が)タダで、そのかわりに、自分たちが制作した「せいひん」を陶器市で売って学資とします。ですから、嫌が上にもきちんとしたものをつくり上げなければなりません。陶芸とは自由の空気をまとって好き勝手に土を形にしてゆくものだとばかり思っていたぼくは、寸分たがわぬ揃い物の器を長板の上に整然と並べていく難しさを、骨身にしみて味わいました。
しかし校風はいたって大らかでした。学友の顔も生気に満ちて輝いています。高校を出たてのボーズ頭から、楽隠居してもよさそうな60代半ばのおじいちゃん(?)まで、多彩なメンツが揃っています。みんな世代間をまたいで交わり、ほがらかな笑顔の輪つくりつつ、場の空気を対流させます。朝早くには園芸部が花壇を掘り起こし、昼休みにはキャッチボール部がグラウンドを駆け巡り、放課後には芝生でひざを突き合わせての陶芸談義がはじまります。人の輪は広がり、ほどけ、有機的に、そして自然に流動するのです。人生の先輩も後輩もない、ただ同じスタートラインに立つ人間同士のフェアさを感じます。
考えてみれば、陶芸というのは妙な世界です。人の生活の役に立つ「機能」を売る商売でもあり、人類の将来に何ら寄与しない「創作」を楽しむという作業でもあるわけです。そんな、堅苦しくも自由な、だらしなくも小難しい、厳しくも愉快な、そんな世界を志した連中なのです。いろんなものを背負い、または離脱し、思い詰めたり達観したりしながらも、どうしようもなく人間味のある人々なわけです。そんな環境に身を置いて、ぼくは修行にはげんでいます。
これ以後は、オモシロ哀しくもばかばかしい我が学校生活をレポートしていきたいと思います。それによって、少しでも陶芸に興味を持っていただければ、と思っています。
長い旅路の果てに人生の目的を見つけたぼくは、とりあえず城を築きました。と言っても、家を建てたわけではありません。アトリエをつくったのです。せま苦しいボロアパートの一室の、またその中に。
お茶の世界で偉いといわれている千利休という人は、「世界なんて一畳半あったらえーんだて」みたいなことを言いました(名古屋弁ではなかったとは思いますが)。そこでぼくは、六畳の部屋のひとすみから万年床を撤去して、そこに一畳半のスペースを設けたのです。
床が傷つかないようにベニヤ板を敷き、そこに、財布をはたいて買った電動ろくろを壁に向けて置きました。それを取り囲むようにコンパネを巡らせ、ろくろが対峙する白壁には、大きなゴミ袋をぺたぺたと貼って、どの方向に粘土が飛び散っても大家さんからイチャモンがつかないようにしました。これでぼくの城の完成です(簡単でした)。
たしかにちんけな一畳半ぽっちのアトリエです。しかしそれは、ぼくには堅牢な要塞のように見え、また昔から夢描いた秘密基地のようにも見えました。そこにはれっきとした城が存在したのです。
ホームセンターで買った500円の丸イスに座り、ろくろに向かうと、その閉じた空間が遮断するものは、外界からの雑音ではなく、自分の気持ちそのものであることに気づきました。大袈裟に言えば、精神世界に向かう瞑想空間がそこにはありました。
ろくろを回すと、ぼくは自分の手によって、自分自身を回している心持ちになります。ろくろのスピードと遠心力は、人間の運動神経にはコントロールの利かないところにあります。土の気持ちを考え、それと同調しないことには、自分のイメージを彼(土)に伝えることはできません。いったん彼が機嫌を損ねれば、人間ごときの反射神経では太刀打ちができないほどの暴れっぷりでこちらを拒絶するのですから。
ただ、土はストレスを、つまり抵抗と摩擦を加えることによってしか成形することができません。しかしそれを加えすぎると機嫌を損ねるのです。そのバランスが難しいのです。要は、彼に知られないように優しく、彼が心地いいように接してやることです。ときには力づくでもって格闘することもありますが、相手の気持ちにさえなっていれば、彼は聞き分けよく挽き上がってきてくれます。
そうして自分のイメージを物体に具現化していく。それはまさしく、自らを成形している感覚なのでした。
集中してろくろを回し、土と対話している間は、まったくの無になる時間です。CDから聞こえていた音楽が、いつの間にか聴覚神経から追い出され、肌を撫でていた風がやみ、外界の色彩が消え、ぼくの頭の中は、土くれの単調な回転に支配されます。大好きな女の子と夢中でダンスを踊る感覚かもしれません。ろくろの回転は、ある意味のまじないのようでもあります。そんなふうに没頭しつつ、ぼくのひとりきりの夜は深まっていきます。
ろくろのターンテーブルにてんこ盛りだった土が、手の平におさまるくらいにちょびてくると、ぼくははたと気づきます。窓の外にカエルの大合唱が聞こえ、部屋の中に蛍光灯に照らされた軽薄な景色が戻ります。そこで初めてぼくは、時計の針が思いがけず進んでいることに驚き、あわてて寝床に就くのです。そう、ろくろにスペースを譲ったために、その下半身部が押し入れに追いやられた万年床に。
劇的な出会いがありました。
陶芸学校に入ったばかりだったある夜、ひとりでふらりと入った酒場に、彼女がいました。ホングーさんといって、ぼくと同じ学校のデザイン科の生徒です(ぼくは製造科です)。彼女は見覚えのあるモヒカン頭(つまりぼく)を酒場のカウンターに見つけ、声を掛けてくれたのです。
彼女はある陶芸家の家に嫁いだばかりで、その家業の勉強のために入校したと言いました。「陶芸家」の部分に心引かれたぼくは、さらに話を聞きました。すると彼女は、なんと「今まさに登り窯の築窯にとりかかったところだから、よかったら手伝いに来てほしい」というのです。その言葉がどれだけぼくの耳に甘美に響いたか想像してください。ぼくは、これぞ千載一遇の機会、と食いつきました。
約束をした週末は、ぴかぴかのお天気でした。教えられた住所は結構な山奥で、ぼくと、件の話に興味を持った仲間たちは車で、つづら折りに曲がりくねった峠道を往きました。そして県境をまたぎ、山をふたつみっつ越えて、ようやくたどり着くことができました。
そこには穏やかな光景がありました。車から降りてギシギシきしむ腰を伸ばしていると、目の前の荒れた庭に小柄な老人がたたずんでいます。ぼくの生涯における大師匠となる人は、そこに穏やかな笑顔を浮かべていました。
彼は陶芸家ホングー氏のお父さんで、太陽じゃ、と自らを名乗りました。太陽先生は、初めて窯を造る息子さんのために、その指南役を担っていました。
彼はほがらかにぼくらをお茶室に招き入れ、自作の茶碗でお茶を点ててくれました。太陽先生は、茶碗作家だったのです。作法を知らぬ若造は、そんな場にどう座していいものやら、どう茶をすすっていいものやらわからず、ひたすらもじもじして、すすめられた茶碗を手にしました。お茶の味などわかりませんでした。ただ、その抹茶碗の不思議に魅力的な造形と、深い色味は、じんと心にしみ入りました。と同時に、初めてその快い世界を知りました。それが、この場所で勉強することになる「茶碗」への取っ掛かりでした。
「作家は茶碗の中に自分の世界観をうたいあげねばならぬ」
と、太陽先生はおっしゃいました。ぼくは、その言葉を終生忘れてはならぬ、と、太陽先生ふうの言葉尻で自分の心に刻み込みました。
とてもよいお話を聞かせていただいた後には、リアルな肉体労働が待っていました。お茶を置き、作業着に着替え、荒れ果てた裏山を進むと、竹藪の向こうに古い登り窯が崩れていました。その脇にバスルームほどの穴が掘られ、底にスコップが突き立てられています。どうやら築窯とは、ひたすら穴を掘ることであると察しがつきました。そしてその穴の壁面を、古い窯を取り崩した煉瓦で固め、天井を閉じれば出来上がり、というわけなのです。想像以上に単純な構造でした。
ただ、太陽先生の頭の中には緻密な設計図が引かれているようでした。ぼくらは掘削班と煉瓦供給班とに分かれ、ひたすら土にまみれました。それは人類の最原初に近い家づくりを彷彿とさせました。いまだ想像しがたい新登り窯完成図と、そのまた遥か遠くにおぼろげに見える自作の薪窯焼成茶碗を目指して、ぼくらはその原始的な作業に没頭しました。
ひたすら土ぼこりにまみれて、ぼくらはこの山で、春の陽光が辺りを満たしたり、盛夏の陽射しがふもとの町並みを焼いたり、秋口の夕陽の柔らかな光線が竹藪を横切って消え入ったりするのを見て過ごしました。ぼくらは半年もの間、スコップを振るい続けました。
窯づくりは着々と進みました。しかしその道が平坦だったわけではありません。仕事はホコリまみれ、泥まみれ、資材をふもとから山の中腹の登り窯まで運び上げたり(ほんの30メートルばかりですが)、竹藪を切り開いたりする作業は、過酷を極めました。
さらに壮絶だったのは、ヤブ蚊との戦いです。前夜の酒まじりの汗を発散する肉体労働者は、ヤブ蚊にとって格好の餌食でした。やつらは、ぼくらが仕事を始めるとたちまち群れになって襲いかかってきて、皮膚のいちばん弱い場所を的確に狙撃します。そして刺された場所は、山を下りて汗が引くと急に疼きだし、ぼくらを悶え苦しませるのでした。
さらにムカデやマムシ等も行く手を邪魔し、作業を滞らせました。しかしおおむね、窯づくりは順調に進みました。激しい筋肉痛や疲労感にもかかわらず、むしろそれは楽しみと喜びに満たされていました。
窯の構造と、それが焼き物に及ぼす作用が手に取るようにわかる窯づくりは、この上ない勉強の場です。実際の窯を前にした太陽先生の講釈によって、ぼくらは抱えきれないほどの知識をお土産に持って帰りました。
こうして、毎週末のように県境と山谷を超え、登り窯に通いつめました。毎回違う作業が待っていて、ぼくらはワクワクしました。最初、山の斜面を掘って穴の底面を水平にし、そこを土台に煉瓦を積み重ね、壁を築いていきました。壁が焼成スペースを一周すると、両サイドから何本もの竹をアーチ型に渡し、天井のすき間を曲線で埋めていきます。竹が編み笠のように組まれると、今度はそれを足場に、煉瓦で天井を築いていきます。天井はドーム型にしなければならないので、煉瓦を微妙に削って角度をつけなければならず、大変な作業でした。しかしこれはパズルのような作業でもあります。みんな必死に頭をひねってぴったりサイズを探し、シックリとはまると、歓声を上げて喜びました。この小さな喜びの積み重ねは、大きな達成感を予感させました。
様々な形の煉瓦で天井のすき間を埋めていき、徐々に美しいドームが全貌を現しはじめました。そのときが近付き、ぼくらは夢中で煉瓦を組み上げます。最後に天頂部の煉瓦がはめ込まれると、屋根は人が乗っても落ちない最高強度のものとなりました。窯の完成です。それは初秋の、日がとっぷりと落ちた時間でした。
ドームを囲んだ全員が雄叫びを上げて喜び合いました。そのあと、奇妙な沈黙が横切り、ぼくらはじんと深いものにひたりました。春先からつくりはじめた登り窯は、年を半周してようやく完成を見たのです。達成感が体を貫いていました。しかし、背後で太陽先生の声が重く響きました。
「やっと焼けるの」
作品をつくらにゃの。そう。作品を焼くための装置を、ぼくらはやっとつくったところなのです。これからここに入れるべき作品をつくらなければなりませんでした。
でも大丈夫。ぼくらは窯づくりと同時に、自分もつくってきたのですから。毎回この場所に通うたびに、太陽先生の話に耳を傾け、極意を伝授していただき、うちに帰ってろくろを相手に反復練習しました。窯に入れるべき作品は、自ずからわき出てくるはずです。
焼成の日にちが決まり、ぼくらは再び目標に向かって走り出しました。
「小皿を挽くのじゃ」
登り窯を築いたぼくらに、太陽先生は作品づくりをうながしつつ、その見本となる皿をくださいました。陶芸家はこういったものを名刺がわりに配らねばならん、と。
その小皿は手の平におさまるほどのサイズで、広くたっぷりと張った見込み(底)からへりをひょいと立ち上げ、その端を外側へ開き折った、洒落たものでした。醤油皿にも見えるし、豆皿にも、また杯としても使えそうです。
「とりあえず、三百枚挽いてみよ」
その数字にギョッとしました。しかし先生はそう言いつつ、自分で掘ってきた大切な土をくださるのです。ぼくらは腹をくくりました。
翌日から土との格闘がはじまりました。先生にいただいたのはカサカサザラザラな掘りたての土なので、まずはそれに水を打って練り、粘土というブッシツに加工しなければなりません。学校に土を持ち込んで、休み時間にこっそりと作業に取りかかりました。
まずは土をふるいにかけ、ゴミや小石を取り除き、完全なパウダー状にします。次にそのパウダーで作業台の上に小山をつくって、噴火口に水を打ち、指先でまぜて徐々に水分を浸透させていきます(そば打ちの最初の場面を想像してください)。水が行き渡ってべたべたの泥になったところで、このままでは練ることができないので、石膏の器に移します。何日かかけて余分な水気を飛ばすのです。ちょくちょく様子を見て、土が少し固くなりはじめたら、練り頃です。ひたすら泥にまみれて練り込み、土から粘りが出るのを待ちます。練っていくうちに、だんだん手応えが粘土っぽくなってくるのです。こうなると土もお行儀よくなります。菊練りをして円すいにまとめ、もうしばらく寝かして、いよいよろくろ成形です。
しかし先生にいただいた小皿は不思議な形をしていました。へりの折り返しの部分が難しそうです。これをつくるのじゃ、と言われましたが、どうつくればいいのかもわかりません。おそらくそれも試されているのでしょう。ぼくは試行錯誤し、成型法を探りました。
すると、皿状に挽いた粘土の端のところで、指を特殊な組み方で重ね、中心方向に圧力をかけるとその形状になることがわかりました。ぼくはついに発見した成型法に歓喜し、着々とつくり上げていきました。多少不細工な小皿ではありましたが。
先生は桃山の焼き物の研究家です。桃山時代は、日本陶芸史上で最高かつ唯一の技術的かつ精神的ピークです。その時代、ものすごい文化が花咲いたかと思うと、すぐに廃れた、不思議な陶芸の世界観がありました。当時の陶芸の技術は、伝統として残りませんでした。またそれについて書かれた文献というものもないのです。職人は、自分の秘技をひた隠しにし、オープンに証拠を残したりはしないものです。だから桃山陶芸の技術はぷっつりと途切れたのです。
「なに、つくりかたなぞは器の中に書いてあるわ」
先生はからからと笑います。昔は古い窯場にこっそりと忍び込んで、拾った陶片を壊しては、そのつくりかたを学んだものだというのです。ぼくはその冗談ともつかない話に笑いながら、先生の好奇心と意欲に凄みを感じたものでした。
その方法論を、先生は一枚の小皿でぼくらに移植してくださったのだと、ぼくは小皿のへりを曲げながら、はたと思い至りました。創作の感動、それが「?」から生まれるのだと、教えられた瞬間でもありました。
太陽先生に「300個挽くのじゃ」と申しつけられた小皿は、結局技術不足から50しか挽けませんでした。しかしそれを工房に持ち込むと、先生はほがらかにシワを開いてヨシヨシとうなずきました。そして「今度はこれに絵付けをするのじゃ」と、唐津の鉄絵の技術まで教えてくださいました。ぼくは恐縮しきって、今度こそは、と気合いをみなぎらせつつ筆を走らせます。しかし唐津ふうの絵付けはヘタウマに味を見いだすのです。ぼくの傍らには、だらしなく脱力した感じのバカ絵皿がずらりと生み出され続けました。
絵を描き終えると、今度は釉薬掛けです。釉薬とは、簡単に言えばガラスを溶かしたもので、これが器にコーティングされているために、土くれは水分を吸収しないで食器として機能するのです。先生の釉薬は、自ら拾ってきた長石や焼いた灰で調合されたもので、ぼくの挽いた歪み皿にまとわせるにはもったいないような秘伝じみたシロモノでした。しかし先生は、それを惜しげもなく使わせてくださいます。半年間の素人たちの働きっぷりと勉強っぷりをじっと見ていてくださったのでしょう。ぼくらは愚かな弟子として認められたのかもしれません。その信頼に応えるためにも、今度の窯焚きは絶対に成功させようと心に誓いました。
山の上の登り窯では、先生の跡継ぎである息子の炎さんが窯詰めをはじめていました。登り窯は三室が連なった連房型で、いちばん前が焚き口の付いたアナ窯、まん中にドーム型の朝鮮式の窯、最後尾にカマボコ型の窯が続いています。そのために世にも奇妙な形をしています。それぞれの窯に特徴ある焼き方を担わせたかったのです。焼き締めて灰をかぶせたい(自然の釉薬になるのです)茶陶系のものは前の窯に、片身変わりなどの特殊な効果を得たいものはまん中の窯に、素直に焼きたいものは後ろの窯に入れるのです。
窯づくりを手伝った者は、各々自作品を持って集まり、得たい効果や確保したい場所でケンカをしつつ、窯詰めを進めていきました。その数、全部で一千点。気の遠くなるような作業が夜を徹して行われました。
そしてついに窯焚きです、と思いきや、まだやらなければならない作業が残されています。ぼくらは学校やレンタル窯で、電気やガスの力に頼り切った焚き方(それはスイッチポンだったり、コックを一ひねりといったやり方でした)を覚えてきました。しかし登り窯はそうはいかないのです。まず薪づくりからはじめなければなりません。ぼくらが築いた窯は、最も原始的な形態のものなのです。しかしそれこそがぼくらの望んだものでした。
薪つくりは、木材の確保からはじまります。ぼくらは窯詰めと平行して、廃材の集積場に足を運び、電柱ほどもある丸太の古建材をチェーンソーで輪切りにしました。それをトラックに満載して工房まで運び、さらにそこから一輪車に乗せて山の上の窯まで運び上げます。そして薪割りです。オノを高々とかかげ、渾身の力で振り下ろしても、刃はねっとりと湿った木材をひと噛みして弾むだけでした。それを何度も反復するうちに、ようやく木はまっぷたつに割れます。丸太は半身になり、徐々に木っ端に割かれていって、薪という名を与えられました。
オノを数百回と叩きつけ、その成果として薪がうずたかく積まれた快感に酔いかけると、しかし山の麓に次の便が到着し、輪切りにされた丸太が転がされる音がしました。いったい窯はいつ焚けるのでしょうか?煉瓦からバリをこそげ取っては積み上げていたあの頃に感じた疑問が、再び脳裏に蘇ってきます。しかし、窯はついに焚かれるのです。
念願の登り窯が完成して、ついに初焼成の日を迎えました。築窯にたずさわった関係者たち(みんな陶芸学校の生徒です)は、窯がまだ形にならない間、密かに作品をつくりためていました。みんなこの日を待ちに待っていたのです。その抑圧されたパワーは並みのものではなく、作品総数は一千を数えました。
持ち寄られた作品群は、登り窯の周囲を足の踏み場もないほどに埋め尽くしました。しかし三つのこぶのように連なった房(ぼくらがつくったのは三連式の登り窯でした)は、作品を片っ端から飲み込んでいき、一晩がかりでそれらをすべて平らげてしまったのです。なんと巨大なものをつくったものだと、改めて思いました。それは半年の歳月と、汗と労力、そして陶芸家としての誇りをかけて築かれたものなのです。いい作品を焼き上げたいという一念が、この巨大物体を出現させたのでした。
太陽センセーの手によって、窯神様にお神酒が供えられ、窯が浄められました。いよいよ火入れです。
火は、最初は焚き口のすぐ外で、細木を集めただけの小さなたき火のように灯されました。その火先が、やがて窯の内部に導かれるように吸い込まれていきます。たき火は徐々に大きく、そして焚き口に近付けられ、吸い込まれた炎は窯内をあたためます。こうして焚き口から煙突までの道をつくっていくのです。ようやく窯の中に火が入るのは、数時間も後のことでした。
窯の中に火が入っても、しばらくは細木だけでゆっくりゆっくりと温度を上げていきます。作品から完全に水分を抜かなければならないのです。晩秋の美濃の山奥は、すでに底冷えの季節です。炎を大きくしたいとはやる心を押さえて、最初の一晩を凍えながら過ごしました。
翌朝から、徐々に温度を上げはじめました。薪を斧でガシガシ割り、焚き口からひょいひょいと放り込むと、炎は面白いように反応してくれます。窯内に設置した温度計の数値はぐんぐん上昇し、焚いているぼくらもそれにしたがって高揚していきました。
900度を越えると、ついに攻め焚きです。薪というよりは丸太と言えそうな木材を、焚き口に突っ込んでフタをするようにします。燃料の補給と、吸入する空気量を押さえる作業を、同時に行っているわけです。こうして酸素の供給を制限することによって、窯の内圧が高まります。すると窯に空いた穴という穴、すき間というすき間から、いっせいに炎がこぼれ出てきます。まるで「酸素をくれ〜」と、炎が舌を伸ばしているように思えます。温度が上がるにしたがってこの現象は顕著になり、1100度を越えると、巨大な炎の大きさを抑え込む小さな窯が今にも破裂するのではないか?と思えるほどです。しかしぼくらがつくった堅固な窯は、作品が焼き上がるまで崩壊することなく、しっかりと炎をその肋骨の中に閉じ込め続けました。芯まで冷え込む初日の夜とはうって変わって、最終日は熱さとの闘いでした。高温が額を焼き、軍手を焦がし、汗まみれでぼくらは闘い続けました。
そしてそれは終わりました。凶暴な炎がだんだんと火勢を弱め、やがて柔らかい熾きになっていく過程を眺めながら、ぼくらは疲れきったからだにビールを流し込みました。静かな夜は、ぼくらをからっぽにしました。歓びと充実感は、成就感とそれに伴う虚脱感に追いやられて、ぼくらをひたすら無口に、そして涙もろくさせました。
翌週、ようやく冷えた窯から作品が出されました。出来のほうは上々とはいかなかったけど、ともかく、ぼくらはやりきったのです。そして、次の目標をさがすのが大変だ、と考えました。しかし、いやそんなことはない、と手の中の作品が言っていました。へんてこりんに焼き上がった彼はぼくらに、山積みの課題を突き付けていました。
念願の登り窯の窯焚きが終わって、しばし美濃の山を離れました。あとは卒業までの残された時間を、瀬戸の訓練校での陶芸修行に打ち込むのみです。冬が深まる中、スカスカと風の吹き抜けるプレハヴの作業場で、ぼくらは一日中ひたすらにろくろを回し続けました。
ちょうどぼくらが学んだこの年は、学校のすぐ裏で「愛・地球博」の設営が進んでいました。その縁もあり、ぼくらはその運営者から大量の器制作の仕事を受注することができました。博覧会場のスペースの一角にお茶室をつくるので、そこで出すお茶道具一式を訓練校の生徒に一任したい、という、信じがたいような冒険・・・いや太っ腹な発注です。願ってもないことです。例年なら、気が緩んで倦怠感が蔓延するというこの時期に、ぼくらはフル回転で制作に望む光栄に浴することができました。
ぼくらがそれまでに学校で学んだことは、「器が美しく幾何学的に整っていること」「大きさや薄さなど、質がそろっていること」「早く、正確に仕上げること」といった職人の技でした。しかしお茶道具は個性の世界です。今までにつちかった技術を、はじめて思う存分に創作につぎ込める喜びに、ぼくらは沸き立ちました。しかもお茶道具については、幸運なことに築窯に通い詰めた先の陶芸家・太陽先生に毎回講釈を受けていたので、この受注は絶好の腕試しの機会となったのです。ぼくは腕を振るいました。
まずは抹茶碗を何種類かつくりました。この地方の伝統的な焼き物、黄瀬戸、織部、瀬戸黒。また他の地方の、唐津、萩、楽、伊万里、高麗もの、唐物まで、すべて「〜ふうのもの」がつくものの、多種多彩な茶碗ができあがりました。陶芸の世界には「写し」という特殊な文化があります。どれだけ先人のものをマネしても、(あまりに個人的なデザインの模写はまずいでしょうが)著作権に引っかからない、叱られない、ロイヤルティーが発生しない、という不文律です。陶芸家は、先人の名物を必死に写し取り、探り、それに迫ろうとするのです。そうして腕を磨くというのが文化として存在するわけです。
ぼくらも桃山時代につくられた名品の写真をろくろの前に広げ、それをお手本にろくろを回しました。しかし皮肉なことに、上達した腕前が邪魔をして、こざかしいほどにうまいものが挽けてしまいます。眼前の写真の中にたたずむ名品の多くは、ヘタウマ、と呼びたくなるほどの放埒さで挽かれていて、ほとんど前衛に近い印層を受けます。ろくろの初心者が挽く、あのひずみ、あのだらしなさ、あの無定形を、彼らは指とろくろとを自在にコントロールして、メリットとして自作品に反映させるのです。それらは、ぼくらが学んだ無機質的完成度とは対極にある、運動、内圧、フリーさ、だけど堅固なたたずまい、というものを持っていました。個人的宇宙と言いたくなるような作品世界でした。おそろしく深く実体するその存在感に、ぼくらは小手先の技術で上手に挽けた自分の茶碗に満足することなどできませんでした。
太陽先生に挽き方をたずねにいっては、また学校でろくろを回し、学んでは吐き出し、覚えては迷い、そうしてぼくらは、茶碗から建水、花入れ、水指と、無鉄砲に突き進んでいきました。
そうこうしてヨチヨチと進むうちに、土は手になじみだし、感覚は回転に追いつきはじめ、徐々に成長というものが実感できるようになりました。雪が降ったり、雪が溶けたりを繰り返す中で、風に春のにおいが混じるようになりました。いよいよ卒業が間近に迫っていました。
卒業が目前に迫っていました。職業訓練校には「卒業制作」というものはありませんが、クラスの誰もが、ここに籍を置いた証を集大成という形で残そうと意気込んでいました。粘土は使い放題、ろくろも巨大な職人仕様、時間もふんだんに費やせる・・・こんな環境はこれから先、とても期待できないのです。この恵まれた設備で、今しかできないことをやっておこう、というわけです。みんな最高傑作を期して、自由制作に乗り出しました。
隣の町で開かれる「愛・地球博」のお茶室の調度品をつくらせてもらった関係で、お茶の世界に興味を持つ者が多くいました。彼らは桃山時代につくられた水指や花入れなどを目標に、古式ゆかしい世界に個性を織り交ぜて制作しました。また日本式の侘び寂びでなく、クラフトと称される整った洋食器を志す者は、磨き上げたろくろ技術で、寸分の狂いもなく幾何学的な形を挽いてみせました。細工の好きな者は、凝りに凝ったデザインの作品を、一日中こつこつと顕微鏡的緻密さでいじくり回していました。
ぼくは周囲から「バカ」と呼ばれたいタイプなので、クラスで誰も試みようとしないほどの巨大な鉢をろくろで挽こうと心に決め、制作に取りかかりました。粘土置き場から「これ以上はろくろに載らないだろう」というだけの粘土を持ち込みました。一抱えほどもあるその土塊の重さを計ると、17、5キロありました。それを練るときは一回一回ジャンプしなければならず、ぴょんぴょん飛び跳ねながら自分でも笑えてきました。こんなものが本当に挽けるのか?と心配になりましたが、気合い充填、ろくろに向かいました。
ろくろを挽くには、まず土殺しといって、土を正確な円すい形にまとめ、回っていても静止しているように芯を出さなければなりません。その時点でほんの少しでも中心がずれていれば、器が完成したときに口縁が波うってしまったりして、正円に挽けないからです。最初がすべてなのです。土殺しは、ろくろ技術で最も難しい作業でした。しかし一年の月日は、ぼくの技術を飛躍的に伸ばしてくれていました。大汗をかいて格闘するうちに、大きな土塊はやがてピタリと芯を食って、高速回転の中で小揺るぎもせずに落ち着きました。中心に穴を空け、何センチもある厚い厚い器の壁を薄く薄く伸ばしていくと、驚くほど背は伸び、口径はひろがりました。午前中いっぱいを使って大胆かつ繊細な仕事を施し、ほんの少しの歪みもなく挽き上がりました。出来上がったものはひとりではかかえきれないほど大きく、赤ちゃんの産湯にも使えそうです。ぼくは毎日の研鑽が、ちゃんと形を持って自分の中に結実していることを確認して、ほっとしました。一年をかけて、ぼくは更新されたのでした。
「卒業制作」が終わると、今度は「修了試験」がありました。半日がかりで、決められたサイズの器を何個つくれるか?というのが試験でした。形は、入学当時に悪戦苦闘した「切っ立ち湯呑み」でした。当時、先生のデモンストレーションでその作り方を見たときは、とてもつくれそうにない、と思ったものでした。その職人芸が、今や完全に自分のものとなっていました。4時間半という時間で70個がノルマです。土練りや土殺しの時間も加味すると、一個あたり2分ほどで挽かなければならない計算です。試験前は不安にかられました。ところがやってみると、驚くほどやすやすと挽くことができました。終わってみれば、完成数107個はクラス二位。しかもその断面はクラスで最も薄く、下から上までが完全に均等な厚みでした。翌年からいきなり陶芸教室をはじめなければならないというプレッシャーは、一年間まったくたわむことを知らないテンションを導き出し、ぼくに力をつけてくれたのだと思います。しかしまだまだ半人前。初心を忘れず、指導していただいたことを胸に刻み、瀬戸の町を後にしました。いよいよ東京で、自分の価値が試されるのです。
あの窯焚きからちょうど一年ほどがたちました。ぼくは再び太陽センセーの前にいました。信じられないほど、センセーはいい顔で微笑んでいました。こんな死に顔は見たことがない、とぼくはしみじみ感じ入りました。微笑みというよりも、それは笑顔だったのです。きっとセンセーの生涯は楽しさに満ちていたに違いありません。棺の中のセンセーは、まるでいたずらに成功した子供のような笑顔でした。
ぼくは訓練校を卒業すると、東京に戻って工房を構え、念願だった陶芸教室をはじめていました。半年間はその準備と、開業してからは運営のほうに忙殺され、美濃に住むセンセーの顔を拝見に伺うこともままならない状況でした。それでも機を見ては手紙を書きました。すると必ずセンセーははしゃいだ声で電話をくださいます。元気な声と重みのある言葉、そして品位あるエロ話は相変わらずでした。しかしその年の秋頃になると急に声に張りがなくなり、弱音が漏れるようになりました。どうしたことかと思い、息子の炎さんに事情を聞くと、「すい臓にガンが巣食っているのが見つかった」ということでした。たまたま別の検査を受けたら発見できたのでラッキーだった、というので、ぼくは大したことはなかろうと思っていたのですが、正月に挨拶に伺ってがく然としました。
「よう来たの」
と言うセンセーは、もう歩けないほどの衰弱ぶりだったのです。食事制限があるというので、ぼくは食べ物でなくセーターをお見舞いにしたのですが、そのそでに腕も通せません。窯焚きのときに雑魚寝する場所として使われ、酒瓶やビール缶が散乱していた部屋は、きれいに片付けられ、その中央のテーブルには豪華すぎるおせち料理が並んでいました。
「なんでもお食べ。わしゃもう食えんで」
そのひと言を絞り出すにも一苦労するセンセーの姿に、ぼくは胸が詰まりました。しかしその眼光は相変わらずで、器づくりでわからんことがあったらなんでも訊いとけ、今のうちじゃ、と言ってくださいます。そこでぼくがあれこれ質問すると、しぼみきったからだを乗り出して答えてくださいます。本当にこのひとは陶芸が大好きで、人間が大好きなんだ、と感じました。
雪の残る窯場を、ぼくはこの場所をはじめて訪れたツマに案内しました。相変わらず窯出しを終えた陶器が散らかっています。その中に、自分のつくったものを見つけました。この場所で修行をしていた当時につくり残しておいたものを、炎さんが焼いてくれていたのです。今となっては笑ってしまうようなへっぽこな形に、ぼくはなつかしさといとおしさを覚えました。こんなド素人に、よくセンセーのような方がつきあってくださったものです。あの頃はセンセーを何度がっかりさせたかわかりません。あまりの下手さに、またバカさ加減にあきれられてもいたと思います。ただ、ある日センセーにこんなふうに質問されたことがありました。
「毎日ろくろを挽いておるか?」
ぼくは、はいっ、と即答することができました。ぼくもセンセーを見習い、一年間一日も遊ぶことなしにろくろを挽き続けたのです。仕事量にだけは自信を持っていました。そのぼくのひとみに見入って、センセーは「ヨシヨシ」と天使のような笑顔を浮かべてくださいました。
棺の中の笑顔は、どこにも影が差していない完全な笑顔でした。あのときみたいだ、と思いました。満足満足、おなかいっぱい。俺は休むが、おまえは精進を怠るでないぞ。そう言われているような気がしました。
花に満たされた棺は閉じられ、葬儀場の窯の炎で焼かれました。陶芸家はそのとき、器の気持ちを知ったかもしれません。
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