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2006年1月〜

 

4月30日(日)
最近のテレビで

ホリエモンが釈放されたからって、なぜあそこまで追いかける必要があるんだろ?ひさびさの顔が欲しいのなら、拘置所から出てきた際のコメントさえ撮りゃ十分なのでは?走行中の車にバイクで詰め寄って、ヘリまで使って追っかけて、その取材意図が分からない。嫌がらせに近いのでは?視聴者がそれ(ホリエモンが嫌がる顔)を望んでる(に決まってる)、という傲慢が透けて見える。だけど視聴者はもっと賢いぞ。マスコミはホリエモンの事件を報道してるつもりでいるんだろうが、きみらが報道してるのは、報道陣の報道の仕方でしかないぞ。

福原愛ちゃん、惜しかった・・・今回の世界卓球の放映を観てて思ったんだけど、どうもあれは日本に不利だね。何がって、画づらが。卓球場のライトって、ほとんど真上から垂直に落ちてるんだねえ。すると彫りの深い外人さんはメリハリが利いて端正さが際立つのに、のっぺり顔の日本人は妙に細工悪く映る。おでこや、ほお骨や、驚いたことにまぶたにいちばんのハイライトがくる選手までいて、東洋の憂いが画面を支配してしまう。その中でも、愛ちゃんだけはきれいに写ってたな。彼女は鼻筋がきれいに通ってんだねえ。あの絶望的なライティングの中でも、ひとり見栄えがする。天はやっぱり、そういう役回りのひとにはふさわしい容貌を与えるんだね。・・・と思ってしまった。

最近楽しみにしてるテレビ番組。ピタゴラスイッチ。チンパン・ニュース・チャンネル。チャングムの誓い。この三つで、ほぼ喜怒哀楽がひととおり。

 

4月27日(木)
スポーツのこと

卓球の中継をしてんだね。つい観てしまう。なかなか面白いね、あれ。福原愛ちゃんを見直した。彼女は本物のアスリートだったんだねえ。他の選手と比べても、あの童顔の女の子だけは格が違うように見える。リアルランカーだ。それを差っ引いても、卓球の試合って普通に面白い。テレビ東京っていつも挑戦してるよなあ。も少しカメラアングルとか考えたら、いいコンテンツになるはず。みんなも観てみて。けっこう手に汗握るかもよ。

清原のコメントにがっかり。「今度ぶつけたやつはぶっ飛ばす」みたいなやつ。オレは乱闘の正当性ってものをほんの少しも認められない。センイチ、大嫌い。試合中に相手を、ましてや審判を殴ったりしたやつは永久追放してもらってかまわない、と思ってる。スポーツじゃないもん。メジャーリーグなんかでは、ぶつけられたらぶつけ返す、みたいなのが文化になってるらしいけど、アホですわ。軽蔑したい。乱闘も野球文化だ、と主張するひとには考えてほしい。WBCのあの誤審の際に王さんが審判を殴ってたとしたら、日本の優勝にどれだけの価値が、説得力があっただろうか?フェアさを忘れたやつに、スポーツをする資格はないのだ。つか、球をよけられない愚鈍さを棚に上げんな、清原。

おっ、すごいシュートだ!と思うと、外人さんだね、たいがい・・・Jリーグが人気ないの、わかる。日本にはなかなか世界クラスの選手が現れない。またW杯の時期が近づいてるけど、あの超人的な人々の中では、日本ってチームがかすんでしまうこと必至。前回の日韓共催大会は奇跡的な大失敗大会だったから、相対的に日本チームが目立てたけど、今度は大丈夫なんだろうか・・・がんばれよ、日本。しかしW杯が終わると、大会で目が肥えてしまったファンたちはJリーグから遠ざかり、逆にサッカーをそれで知ったにわかファンたちがJリーグを追っかけだし、結果(前回同様)Jはさらに、世界でも類を見ない軽ーいノリのサッカーリーグとなってしまうのであった。

・・・って、けっこうスポーツ好きなんじゃん、オレ。スポーツってのは、ひとを楽しませるものだ。それはたかがゲームなんだけど、だからこそそのくだらない疑似戦争には、観るに耐える高いクオリティと美意識を要求したいのだった。


勇ましき童顔。

 

4月25日(火)
締め切り

マンガ付きコラムを季刊で一本だけ連載してんだけど、スパンが長いと調子狂うね。
週一回の休日、寝坊して午後のまどろみを楽しんでるところに、けたたましい電話の音。
「締め切りが過ぎてるんですけど、まだですか?」
編集長直々の催促。輪転機止めて先生の原稿待ちって状況なんすけど、ふうのあわてっぷり。知らないよ。期限なんて聞いてないよ。連休前に入稿、とだけは聞いたけど。いや、ひょっとして三ヶ月前に聞いてたのかな?それにしたって、期限が迫ったら警告くらい・・・なんてグダグダ言ってるヒマはない。原稿は今日中にくれ、とのおおせ(性急すぎる!)。事情はどうあれ、間に合わせねば。幸いネームはできてたんで、清書に起こすだけ。許された時間は5時間程度か?アドレナリンを核分裂させて、まばゆいばかりに真っ白な原稿用紙に向かった。
しなるペン先、走るインク。短時間で、しかもクオリティを落とさずに描くのは骨が折れる。なんとかコマ割りし、下絵に墨を入れ終えたところで、すでにリミットぎりぎり。間に合わない。仕方なく、最後の頼みの綱、近所の大先生様を頼った。「ドラゴン桜」の三田紀房氏ね。うちの裏に住んでる三田さん(いや、彼の豪邸の裏がうちなのだが)に頼み込み、スタッフをひとり拝借し、ベタとトーンを手伝ってもらうことにした。さすが売れっ子の人気作を支えるアシスタント。すばらしい仕事っぷり。ものの一時間で原稿は完成した。だけど今から郵送じゃ間に合わない。バイク便を出させてくれるような体力のある会社でもない(いや、それが許される作家の格でもない、の方が正確か)。自分で直接編集部に持ち込むことにした。外は折悪しく、土砂降り。その中、チャリを飛ばして大泉学園駅へ。そこから池袋に出て、丸ノ内線乗り換え、本郷三丁目。なんとか間に合った。あとはよろしく頼んだぜ、編集長。ふう。
作家は催促なしに原稿なんて書かないものだと、改めて自覚した。そこで編集長にお願い。ちょくちょくつついてくすぐって尻叩いてそそのかしてくださいな。出版社とはいっても、作家と付き合いがあるような部署じゃないんで、まさか期日に原稿が届かないなんてことは夢にも思わないのかもしれないけど、ほんとに作家は締め切り守りませんから、悪いけど。というわけで、反省しつつ、恐縮しつつ、そのあたりお願いします。


本郷三丁目にいったら「ホンサンカフェ」で一息。
安くておいしいし、店長の今村っちはきれいだし、いいとこよ。

 

4月21日(金)
興味

マンガ家をやめたら、サッカーにも、野球にも、全然興味がなくなった。情報に敏感でなきゃいけない、みたいな強迫観念がこれらのスポーツを追っかけさせてたんだけど、陶芸家となった今となってはもう必要なし。いち抜けてからながめてみると、その手の情報ってのはほんとにどうでもいいものだった。最初から好きでもなんでもなかったんだろうか?
それとも歳を取ったのかな?だけどプロ野球ってのはおっさんの支持なくしてはどうにも成り立ちようにない興行だ。あのダラダラした間合いが、年寄りの娯楽にはうってつけなのだ。一方、そんな野球を焦れったく感じる若者層がサッカーを盛り上げたわけだけど、この多チャンネル時代になると、世界超一流のプレーがインフレに流される。そうして目が肥えてくると、とてもじゃないがJリーグなんて観る価値がない。こうして日本国民は、「WBCに燃えても、プロ野球の視聴率を下げる」「ワールドカップに盛り上がっても、国内の試合に食指は動かない」ってなことになるのだった。
いや、そんな話じゃなく、オレはもう本当に野球にもサッカーにも興味がなくなったらしい。枯れてきたとかいうポジションとは思わない。むしろバカバカしいものから解き放たれた感じ。自由だ、わーい、が近い。他にもっともっとやらなきゃいかんこと、考えなきゃいかんことがある。今はそれを追っかけよう。それにしてもサッカーW杯、ちまたでは盛り上がってるのかな?がんばれ、日本。がんばれ、日本国民(完全に外からの視線です。どうしたことか?)。

 

4月11日(火)
鼻毛くんの野望

鼻毛が伸びるね、この時期は。なんでだろ?春の強い風のせいでほこりっぽいからかな。
そういえば、美大彫刻科にいる頃がすごかった。石彫場には、石をグラインダーでけずった粉塵の嵐がいつも吹き荒れてて、まるで石粉のシャワーを浴びてるみたいだった。粉塵用マスクは装着してるんだけど、それでも口の中がざらざらで、鼻毛は真っ白になった。
放課後には、マスクをはずしてグラウンドを駆けずり回った。ラグビーのスパイクに掘り起こされた土は夕闇に舞い上がって、風にそよぐ鼻毛にからんだ。石粉と土ぼこりを一日中吸ってたら、肺の濾過装置の目が詰まりそうだった。その状況からオレの命を守ってくれたのが、誰あろう鼻毛くんだ。ありがとう、鼻毛くん。
あの頃の鼻毛は力強く伸びてた。毎日ぐんぐん伸びてた。まるで若竹の生命力。切っても切っても、後から後から伸びてきた。鼻くそをかき分けて伸びてきた。そしてすぐに異物をキャッチしてくれた。だけどじゃまだった。かっこわるかったし。もう伸びないでくれ、とシリアスにのろってた。
異物を感知すると鼻毛は伸びる。考えてみたらすごいことだ。鼻毛にも意思があるんだろうか?人間の(つか動物でも植物でもそうなのだが)細胞は、体内というひとつの宇宙の中で自分の生き死にをサイクルさせて個体としての人間を維持していく。いっこいっこの役割は独立してても、全体でつながり合ってひとりの人間の生命を形づくってるわけだ。
だけどその大勢の、つまりいっこいっこの細胞は、個人的な意思を持って人間を生かしてるんだろうか?例えば鼻毛は、主である人間を異物の危険から救おうと背丈を伸ばし奉公するわけだが、主からはさげすまれ、邪険に扱われ、切り刻まれてしまう。それで本望なのか?と問いたい。
しかし裏を返せば、彼は主の意思に反してでも身の程を超えた成長を志しはじめた、と言えなくはないか。鼻毛が異物をこし取るのに、鼻の外までも飛び出して長く伸びる必要はないんだから。それはセンエツというものだろう。ただ、独立独歩という進化が起こった可能性は否定できない。「オレは生きたいように生きる」と主張をはじめたのだ。脇役が嫌いなのだ、鼻毛くんは。たしかに彼は、そこから姿を半身見せるだけで、ひどく人目を引く。彼はそんなポジションが好きなのかもしれない。目立ちたがりなのだ。そう、彼、鼻毛くんは、ひのき舞台に躍り出て、はなひらきたがってるのだった。

 

4月6日(木)
証拠品

下着泥棒が捕まると、体育館にパンツを並べるのはなぜだろう?並べる仕事もしんどいが(ま、楽しいのかもしれないけど)、それを入念に確認する係官もなかなかに切ない仕事だ。ついでに、この係官はパンツをひっくり返したり嗅いだりしてさんざんもてあそんだ後に何やら気難しい顔で手帳にいろいろと書き込んでるわけだが、何をメモってるのだ?柄?サイズ?あ、値段か?そっちの専門家か?被害額は微妙に難しいな、そう言われると。古着として扱うべきなのか、マニア方面の視点から値段をはじき出すべきなのか。さてはそういう仕事か。つか、計算って一枚一枚なの?重さでドン、じゃダメなん?つか、なんで並べる?堂々巡り・・・つか、そこにテレビカメラ入れちゃいかんだろ?いいのかな?警察のサービス?

 

4月4日(火)
エールメルマガコラム・春の茶

最近、お茶のお稽古に通ってます。
お茶は落ち着きますよ。所作のいっこいっこを丁寧にこなしてると、瞑想してるような感覚になります。まだその境地までいけなくて、手順を覚えるのに四苦八苦してますけど。だけどオレはサムライになるのです。それにふさわしい品格を身につけねば。いちばんの障害は足のしびれ・・・難敵です。何とかなんないのか、このつらさ・・・
さて、お抹茶には必ず和菓子がつきます。オレは今まで、あんこほど嫌いなものはなかったのですが、お茶をはじめてから克服しました。お菓子で口の中を甘ったるくしてから、それを清々しい茶で流すと、いい心地。甘すぎるあんこも、苦すぎるお抹茶も、ひとつひとつは極端でバカバカしい味ですよね。でもそれが合わさると、カウンターバランスで中和され、とてもおいしく感じられます。序破急というか、起承転結というか、お茶席の流れはそんな構成になってるわけです。そんなひとつの物語の中で、あんことお抹茶というすばらしい相性が生まれたのでした。エールハウスさんも、ビールを主役に、こんな仕事をしてください。
ところで、マンション3階のお茶室の窓に、街路の桜が飛び込みそうなくらいに枝振りを伸ばしてます。つぼみから徐々にそれがほころんで開花するようすが、手に取るようにわかるわけです。満開になったら、きっと雲海のように目くらむ光景になるはず。すばらしい借景。楽しみです。

 

4月3日(月)
ケンカ腰タバコ論

タバコ吸いで頭に来るのは、ここでは吸わないで、っつっんのに断固吸うタバコ吸いね。飲んでるときなんかに、「あー、やっぱごめん、我慢できないや。吸わせて。ごめんごめん」とか言って。ごめんじゃねえっつんだよ。なめとんかい。
この手の輩はたいがい遠慮がちに、かつひとへの配慮めいた言葉を添えつつ行為に及ぶのだが、本質的には傲岸(おごりたかぶってへりくだらないさま)以外の何でもねっぞ。あんたが高をくくってる遥か以上に、ひとびとは本気でタバコを憎しんでますから、悪いけど(断定)。
ニコチン中毒だから、どうしようもない?同情できないよ、そんな身勝手。言い訳にしちゃ弱すぎる。自分が我慢できないために、相手が我慢すべきだ、つ論法?んな理屈はないよね。ひとの迷惑もかえりみてほしい。つか甘すぎるね、自分の心にも、他人の目にも。オレにはけむたい、あんたの心根自体が。
マナーさえ守れば、タバコはじゃんじゃん吸ってもらってかまわない。ひとのいないところで孤高にたしなんで、血液をどろどろにするのを誰も止めないよ。だけど実際問題、マナーを守りきれるタバコ吸いなんているのかな?この人類の密集した現代社会では、タバコ吸うこと自体がマナーに反してる行為なので、微妙にパラドックスのように思える。喫煙所で吸ったところで、それは法的、ルール的に許されてるだけであって、煙りがよそに漂い流れるかぎり、迷惑であることにかわりはない。そのことを知ってるひとだけが、たばこを吸う権利があると思う。
つことを、ちゃんとシリアスに考えて吸ってね、タバコ吸いのみなさん。周囲は本気で怒ってるのだから。実際、この手の話を非喫煙者の間でもちだすと、ほぼ100%の確率で全員がエキサイトしまくるんである。きみの知らないところで、(その行為をする)きみはこんなにも憎悪されてるんである。ま、オレも極端な思想の持ち主だ、とは思うが。

 

3月31日(金)
ビッグマウス

亀田三兄弟、威勢がいいね。しゃべりすぎが気になるけど、今度こそ本当に強いボクサーだと思いたい。同じようなキャラの辰吉が弱かったから・・・この手のはしゃぎすぎるスポーツ選手には要注意だ。てんで見かけ倒しってのが、ままあるし。
はしゃぎすぎボクサーでまず思い出すのがモハメド・アリなわけなんだけど、あのおしゃべりは、あの絶対的な強さがあるから許される。ちょっとやそっと強いだけじゃダメね。圧倒的でないと。そこそこ強くても、観衆はがっかりしちゃう。とにかくズバ抜けた強さが要求される。だからあの手のハイテンションは、自分がそうありたいという祈りであったり、恥をかかないための自分へのムチであったり、プレッシャーを散らす呪文だったりするわけ。
辰吉は、最当初はほんとに強かったと思うんだけど、途中から自分のおしゃべりのまじないにかかっちゃったんだね。ひどく打たれ弱いのに、調子に乗ってノーガードで華奢なあご突き出して、まんまともらったら一発で前後不覚に陥ったり、そのままボコボコにされたり、なんて無様な試合ばっかしてた。そこが彼のいかすとこでもあるんだけど、彼を伝説の男扱いしたがる世論は疑問。
さて、亀田長男はそんなヘマはしない。ガードを開いて招き入れるようなうかつなマネは絶対にしないし、打つべきときに強いのを計算ずくに打つ。クレバーで、臆病なボクサーだ。すげー才能があるとは思わないけど、すげー強い、気がする、今んとこ。逆説的にいえば、本当に恐い相手をあたったときと、自分が本当に強いと評価されたときが見ものだなー、と思う。そのときまでずっと臆病でいられたら、このひとは本物のヒーローになってしまう、気がする。

 

3月27日(月)
ボディ・コンシャス

世の中で絶対に着たくない服があるとしたら、それは野球で最近流行りのお肌密着アンダーシャツ。なんなのあれ?なぜぴちぴちテカテカツヤツヤ?ボディコンシャスなテイストがかるくエロいよ〜。
数年前に松坂あたりが着だしたと思ったら、最近は高校球児までがあのぴちぴちアンダー。がんばってる球児には悪いんだけど、正直言って、キモいんです。できればやめてほしい。ごめんなさい。
しかしなぜあのシャツ?まさかとは思うが、かっこいいと思って着てるのか・・・?あり得ない。ムチムチに見えてなまめかしい。男バレエダンサーのタイツ生地を連想させる。だとしたら合理性なのだろうが、あんなフィットしたシャツを着て、投げたり打ったりが窮屈にならないのだろうか?いろんなテクノロジーが詰まってんのかな。しかしですよ、だとしたら野球のユニフォームにはもっと先に改善しなきゃならん点があるでしょうが。なぜあのぶかぶかの半袖上着を着なければならんのか?とか、ベルトは危険じゃないのか?とか、なぜソックスを二重にはいてるのか?とか、ドームなのになぜ帽子をかぶらねばならんのか?とか、不合理いっぱい。そこから直せ。
だけどそれ以上にオレが言いたいのは、あのアンダーシャツはキモいんです、という点です。それだけです。やめてー。イチローあたりが着てたら絶対ひくからね。着ないだろうけど、わかってる人間は。それともそう感じてるのはオレだけなのか?あれは未来チックでクールな最新モードなのか?誰か教えて?かっこいいの?あのアンダーシャツ。

 

3月22日(水)
WBC

よかったね、WBC優勝。興奮気味なので、ついコラムを再開してしまいましたよ。
だけどまあ、どんなことを書いてもどこかで読んだようなものになってしまってばかばかしいね、この話題は。とりあえず、イチロー株の急騰に相反して、松井は株を下げたなあ、だけは言っておかねば。マスコミは松井を、批判の許されないアンタッチャブルとして扱うんだけど、も少しちゃかしてあげないと、彼の存在は窮屈すぎる。ちゃんと報道してあげなさい。かっこわるいぞ、と。
それにしてもイチローは生意気だねえ。きざが生き生きしてて、かえってすがすがしいや。やっぱ歴史に名を残す人間は美しい。どこから見ても彼は美しい。打球も世界一美しい。それまではナルシズムが鼻についたけど、彼はただ純粋な野球少年だったのだねえ。つか、知性を成熟させた大きな子供。見惚れた。
鈴木一朗って名前は、山田太郎(日本最高の打者・by ドカベン)に通ずるところがある。名前が人間をつくるってのもあるね。「イチロー」なんてこざかしいリングネームの導入も、彼が日本で最初だ。だけど名前がその存在を際立たせる。
南極物語でも、生き残ったのが「タロ」「ジロ」だったところがみそで、「ふくすけ」や「ロドリゲス」が生き残ったとしたら、こうも劇的には伝えられなかったんじゃないの?と思う。ビートルズ一行が遭難して、ジョンとポールだけが生き残ったみたいな感じするもんね。これがリンゴとマネージャーだけが助かってたら、報道に乗っけようもないもんなあ。
坂本龍馬の兄貴は「ごんべえ」というんだけど、日本改革の大役が兄でなく弟に回ってきたのは、神様(あるいは時代)が名前でチョイスしたのだとしか考えられない。ごんべえ氏に、それほどの大それた仕事が成し得るとは思えないもんね。
だから、名前は大切なんである。松井も「ヒデキ」か「ゴジラ」にしたらいいのに。そうすればもう少しはじけられるだろう。
つか、どこがWBCネタやねん、っちゅう話しなんだけど。

 

恭子ちゃんβコラム・総集編(推考中)

みなさん、はじめまして、森田森魚です。
え?初めてじゃないって?毎回この冊子にコラムを連載してるじゃないかって?
ところが今回のぼくは生まれ変わっているのです。前回までの「旅人」の森田森魚とは違います。ぼくは漂流するうちに、自分が身を置くべき場所をついに見つけたのです。
それは「陶芸」という世界でした。おこがましく宣言させてもらえば、ぼくは陶芸家になるのです。その修行のために、愛知県瀬戸市という、せともの発祥の地(あたりまえか)に居を移しました。
もう車を拾う必要はありません。なにしろ自分の居場所に行き着いたのですから。今はろくろの前にどっしりと尻を据えて、土と格闘しています。ぼくは、自分のさがしものが、この目の前にあるねとねとの土くれであることにようやく思い至ったのでした。腹をくくって、ものつくりに取り組んでいます。
ここは陶芸の学校です。粘土いじりに多少の心得はあったものの、その道の基礎を経ていないぼくは、知識と技術をもう一度自らの根幹に叩き込むために、まずは実地の場よりも、学校という場所を選んだのでした。
平均寿命の半ばに踏み入ってからの方向転換には逡巡がありました。しかしどうしてもこの最終コーナーを曲がりきらなければゴールにたどり着けないとわかったので、ぼくはツマを説得し(うん、いいよ、とあっさりと許可が下りましたが)、単身でこの器の町に乗り込んできたのです。
久々のシングルライフを満喫する間もなく、厳しい修行生活がはじまりました。この学校では、制作実習のことを「くんれん」と呼び、完成した作品を「せいひん」と呼びます。世に出て陶磁器制作だけで食っていきたい人々のために技能を叩き込む、いわば職業訓練校なのです。揃いにあつらえられた囚人服のような作業着を着て、朝のラジオ体操から、夕方の戸締まりまで、みっちりと陶芸づけにされます。それはまさに望むところなのです。
面白いことにこの学校は、学費も実習費も、さらには材料費まで(つまり一切が)タダで、そのかわりに、自分たちが制作した「せいひん」を陶器市で売って学資とします。ですから、嫌が上にもきちんとしたものをつくり上げなければなりません。陶芸とは自由の空気をまとって好き勝手に土を形にしてゆくものだとばかり思っていたぼくは、寸分たがわぬ揃い物の器を長板の上に整然と並べていく難しさを、骨身にしみて味わいました。
しかし校風はいたって大らかでした。学友の顔も生気に満ちて輝いています。高校を出たてのボーズ頭から、楽隠居してもよさそうな60代半ばのおじいちゃん(?)まで、多彩なメンツが揃っています。みんな世代間をまたいで交わり、ほがらかな笑顔の輪つくりつつ、場の空気を対流させます。朝早くには園芸部が花壇を掘り起こし、昼休みにはキャッチボール部がグラウンドを駆け巡り、放課後には芝生でひざを突き合わせての陶芸談義がはじまります。人の輪は広がり、ほどけ、有機的に、そして自然に流動するのです。人生の先輩も後輩もない、ただ同じスタートラインに立つ人間同士のフェアさを感じます。
考えてみれば、陶芸というのは妙な世界です。人の生活の役に立つ「機能」を売る商売でもあり、人類の将来に何ら寄与しない「創作」を楽しむという作業でもあるわけです。そんな、堅苦しくも自由な、だらしなくも小難しい、厳しくも愉快な、そんな世界を志した連中なのです。いろんなものを背負い、または離脱し、思い詰めたり達観したりしながらも、どうしようもなく人間味のある人々なわけです。そんな環境に身を置いて、ぼくは修行にはげんでいます。
これ以後は、オモシロ哀しくもばかばかしい我が学校生活をレポートしていきたいと思います。それによって、少しでも陶芸に興味を持っていただければ、と思っています。

 

長い旅路の果てに人生の目的を見つけたぼくは、とりあえず城を築きました。と言っても、家を建てたわけではありません。アトリエをつくったのです。せま苦しいボロアパートの一室の、またその中に。
お茶の世界で偉いといわれている千利休という人は、「世界なんて一畳半あったらえーんだて」みたいなことを言いました(名古屋弁ではなかったとは思いますが)。そこでぼくは、六畳の部屋のひとすみから万年床を撤去して、そこに一畳半のスペースを設けたのです。
床が傷つかないようにベニヤ板を敷き、そこに、財布をはたいて買った電動ろくろを壁に向けて置きました。それを取り囲むようにコンパネを巡らせ、ろくろが対峙する白壁には、大きなゴミ袋をぺたぺたと貼って、どの方向に粘土が飛び散っても大家さんからイチャモンがつかないようにしました。これでぼくの城の完成です(簡単でした)。
たしかにちんけな一畳半ぽっちのアトリエです。しかしそれは、ぼくには堅牢な要塞のように見え、また昔から夢描いた秘密基地のようにも見えました。そこにはれっきとした城が存在したのです。
ホームセンターで買った500円の丸イスに座り、ろくろに向かうと、その閉じた空間が遮断するものは、外界からの雑音ではなく、自分の気持ちそのものであることに気づきました。大袈裟に言えば、精神世界に向かう瞑想空間がそこにはありました。
ろくろを回すと、ぼくは自分の手によって、自分自身を回している心持ちになります。ろくろのスピードと遠心力は、人間の運動神経にはコントロールの利かないところにあります。土の気持ちを考え、それと同調しないことには、自分のイメージを彼(土)に伝えることはできません。いったん彼が機嫌を損ねれば、人間ごときの反射神経では太刀打ちができないほどの暴れっぷりでこちらを拒絶するのですから。
ただ、土はストレスを、つまり抵抗と摩擦を加えることによってしか成形することができません。しかしそれを加えすぎると機嫌を損ねるのです。そのバランスが難しいのです。要は、彼に知られないように優しく、彼が心地いいように接してやることです。ときには力づくでもって格闘することもありますが、相手の気持ちにさえなっていれば、彼は聞き分けよく挽き上がってきてくれます。
そうして自分のイメージを物体に具現化していく。それはまさしく、自らを成形している感覚なのでした。
集中してろくろを回し、土と対話している間は、まったくの無になる時間です。CDから聞こえていた音楽が、いつの間にか聴覚神経から追い出され、肌を撫でていた風がやみ、外界の色彩が消え、ぼくの頭の中は、土くれの単調な回転に支配されます。大好きな女の子と夢中でダンスを踊る感覚かもしれません。ろくろの回転は、ある意味のまじないのようでもあります。そんなふうに没頭しつつ、ぼくのひとりきりの夜は深まっていきます。
ろくろのターンテーブルにてんこ盛りだった土が、手の平におさまるくらいにちょびてくると、ぼくははたと気づきます。窓の外にカエルの大合唱が聞こえ、部屋の中に蛍光灯に照らされた軽薄な景色が戻ります。そこで初めてぼくは、時計の針が思いがけず進んでいることに驚き、あわてて寝床に就くのです。そう、ろくろにスペースを譲ったために、その下半身部が押し入れに追いやられた万年床に。

 

劇的な出会いがありました。
陶芸学校に入ったばかりだったある夜、ひとりでふらりと入った酒場に、彼女がいました。ホングーさんといって、ぼくと同じ学校のデザイン科の生徒です(ぼくは製造科です)。彼女は見覚えのあるモヒカン頭(つまりぼく)を酒場のカウンターに見つけ、声を掛けてくれたのです。
彼女はある陶芸家の家に嫁いだばかりで、その家業の勉強のために入校したと言いました。「陶芸家」の部分に心引かれたぼくは、さらに話を聞きました。すると彼女は、なんと「今まさに登り窯の築窯にとりかかったところだから、よかったら手伝いに来てほしい」というのです。その言葉がどれだけぼくの耳に甘美に響いたか想像してください。ぼくは、これぞ千載一遇の機会、と食いつきました。
約束をした週末は、ぴかぴかのお天気でした。教えられた住所は結構な山奥で、ぼくと、件の話に興味を持った仲間たちは車で、つづら折りに曲がりくねった峠道を往きました。そして県境をまたぎ、山をふたつみっつ越えて、ようやくたどり着くことができました。
そこには穏やかな光景がありました。車から降りてギシギシきしむ腰を伸ばしていると、目の前の荒れた庭に小柄な老人がたたずんでいます。ぼくの生涯における大師匠となる人は、そこに穏やかな笑顔を浮かべていました。
彼は陶芸家ホングー氏のお父さんで、太陽じゃ、と自らを名乗りました。太陽先生は、初めて窯を造る息子さんのために、その指南役を担っていました。
彼はほがらかにぼくらをお茶室に招き入れ、自作の茶碗でお茶を点ててくれました。太陽先生は、茶碗作家だったのです。作法を知らぬ若造は、そんな場にどう座していいものやら、どう茶をすすっていいものやらわからず、ひたすらもじもじして、すすめられた茶碗を手にしました。お茶の味などわかりませんでした。ただ、その抹茶碗の不思議に魅力的な造形と、深い色味は、じんと心にしみ入りました。と同時に、初めてその快い世界を知りました。それが、この場所で勉強することになる「茶碗」への取っ掛かりでした。
「作家は茶碗の中に自分の世界観をうたいあげねばならぬ」
と、太陽先生はおっしゃいました。ぼくは、その言葉を終生忘れてはならぬ、と、太陽先生ふうの言葉尻で自分の心に刻み込みました。
とてもよいお話を聞かせていただいた後には、リアルな肉体労働が待っていました。お茶を置き、作業着に着替え、荒れ果てた裏山を進むと、竹藪の向こうに古い登り窯が崩れていました。その脇にバスルームほどの穴が掘られ、底にスコップが突き立てられています。どうやら築窯とは、ひたすら穴を掘ることであると察しがつきました。そしてその穴の壁面を、古い窯を取り崩した煉瓦で固め、天井を閉じれば出来上がり、というわけなのです。想像以上に単純な構造でした。
ただ、太陽先生の頭の中には緻密な設計図が引かれているようでした。ぼくらは掘削班と煉瓦供給班とに分かれ、ひたすら土にまみれました。それは人類の最原初に近い家づくりを彷彿とさせました。いまだ想像しがたい新登り窯完成図と、そのまた遥か遠くにおぼろげに見える自作の薪窯焼成茶碗を目指して、ぼくらはその原始的な作業に没頭しました。
ひたすら土ぼこりにまみれて、ぼくらはこの山で、春の陽光が辺りを満たしたり、盛夏の陽射しがふもとの町並みを焼いたり、秋口の夕陽の柔らかな光線が竹藪を横切って消え入ったりするのを見て過ごしました。ぼくらは半年もの間、スコップを振るい続けました。

 

窯づくりは着々と進みました。しかしその道が平坦だったわけではありません。仕事はホコリまみれ、泥まみれ、資材をふもとから山の中腹の登り窯まで運び上げたり(ほんの30メートルばかりですが)、竹藪を切り開いたりする作業は、過酷を極めました。
さらに壮絶だったのは、ヤブ蚊との戦いです。前夜の酒まじりの汗を発散する肉体労働者は、ヤブ蚊にとって格好の餌食でした。やつらは、ぼくらが仕事を始めるとたちまち群れになって襲いかかってきて、皮膚のいちばん弱い場所を的確に狙撃します。そして刺された場所は、山を下りて汗が引くと急に疼きだし、ぼくらを悶え苦しませるのでした。
さらにムカデやマムシ等も行く手を邪魔し、作業を滞らせました。しかしおおむね、窯づくりは順調に進みました。激しい筋肉痛や疲労感にもかかわらず、むしろそれは楽しみと喜びに満たされていました。
窯の構造と、それが焼き物に及ぼす作用が手に取るようにわかる窯づくりは、この上ない勉強の場です。実際の窯を前にした太陽先生の講釈によって、ぼくらは抱えきれないほどの知識をお土産に持って帰りました。
こうして、毎週末のように県境と山谷を超え、登り窯に通いつめました。毎回違う作業が待っていて、ぼくらはワクワクしました。最初、山の斜面を掘って穴の底面を水平にし、そこを土台に煉瓦を積み重ね、壁を築いていきました。壁が焼成スペースを一周すると、両サイドから何本もの竹をアーチ型に渡し、天井のすき間を曲線で埋めていきます。竹が編み笠のように組まれると、今度はそれを足場に、煉瓦で天井を築いていきます。天井はドーム型にしなければならないので、煉瓦を微妙に削って角度をつけなければならず、大変な作業でした。しかしこれはパズルのような作業でもあります。みんな必死に頭をひねってぴったりサイズを探し、シックリとはまると、歓声を上げて喜びました。この小さな喜びの積み重ねは、大きな達成感を予感させました。
様々な形の煉瓦で天井のすき間を埋めていき、徐々に美しいドームが全貌を現しはじめました。そのときが近付き、ぼくらは夢中で煉瓦を組み上げます。最後に天頂部の煉瓦がはめ込まれると、屋根は人が乗っても落ちない最高強度のものとなりました。窯の完成です。それは初秋の、日がとっぷりと落ちた時間でした。
ドームを囲んだ全員が雄叫びを上げて喜び合いました。そのあと、奇妙な沈黙が横切り、ぼくらはじんと深いものにひたりました。春先からつくりはじめた登り窯は、年を半周してようやく完成を見たのです。達成感が体を貫いていました。しかし、背後で太陽先生の声が重く響きました。
「やっと焼けるの」
作品をつくらにゃの。そう。作品を焼くための装置を、ぼくらはやっとつくったところなのです。これからここに入れるべき作品をつくらなければなりませんでした。
でも大丈夫。ぼくらは窯づくりと同時に、自分もつくってきたのですから。毎回この場所に通うたびに、太陽先生の話に耳を傾け、極意を伝授していただき、うちに帰ってろくろを相手に反復練習しました。窯に入れるべき作品は、自ずからわき出てくるはずです。
焼成の日にちが決まり、ぼくらは再び目標に向かって走り出しました。

 

「小皿を挽くのじゃ」
登り窯を築いたぼくらに、太陽先生は作品づくりをうながしつつ、その見本となる皿をくださいました。陶芸家はこういったものを名刺がわりに配らねばならん、と。
その小皿は手の平におさまるほどのサイズで、広くたっぷりと張った見込み(底)からへりをひょいと立ち上げ、その端を外側へ開き折った、洒落たものでした。醤油皿にも見えるし、豆皿にも、また杯としても使えそうです。
「とりあえず、三百枚挽いてみよ」
その数字にギョッとしました。しかし先生はそう言いつつ、自分で掘ってきた大切な土をくださるのです。ぼくらは腹をくくりました。
翌日から土との格闘がはじまりました。先生にいただいたのはカサカサザラザラな掘りたての土なので、まずはそれに水を打って練り、粘土というブッシツに加工しなければなりません。学校に土を持ち込んで、休み時間にこっそりと作業に取りかかりました。
まずは土をふるいにかけ、ゴミや小石を取り除き、完全なパウダー状にします。次にそのパウダーで作業台の上に小山をつくって、噴火口に水を打ち、指先でまぜて徐々に水分を浸透させていきます(そば打ちの最初の場面を想像してください)。水が行き渡ってべたべたの泥になったところで、このままでは練ることができないので、石膏の器に移します。何日かかけて余分な水気を飛ばすのです。ちょくちょく様子を見て、土が少し固くなりはじめたら、練り頃です。ひたすら泥にまみれて練り込み、土から粘りが出るのを待ちます。練っていくうちに、だんだん手応えが粘土っぽくなってくるのです。こうなると土もお行儀よくなります。菊練りをして円すいにまとめ、もうしばらく寝かして、いよいよろくろ成形です。
しかし先生にいただいた小皿は不思議な形をしていました。へりの折り返しの部分が難しそうです。これをつくるのじゃ、と言われましたが、どうつくればいいのかもわかりません。おそらくそれも試されているのでしょう。ぼくは試行錯誤し、成型法を探りました。
すると、皿状に挽いた粘土の端のところで、指を特殊な組み方で重ね、中心方向に圧力をかけるとその形状になることがわかりました。ぼくはついに発見した成型法に歓喜し、着々とつくり上げていきました。多少不細工な小皿ではありましたが。
先生は桃山の焼き物の研究家です。桃山時代は、日本陶芸史上で最高かつ唯一の技術的かつ精神的ピークです。その時代、ものすごい文化が花咲いたかと思うと、すぐに廃れた、不思議な陶芸の世界観がありました。当時の陶芸の技術は、伝統として残りませんでした。またそれについて書かれた文献というものもないのです。職人は、自分の秘技をひた隠しにし、オープンに証拠を残したりはしないものです。だから桃山陶芸の技術はぷっつりと途切れたのです。
「なに、つくりかたなぞは器の中に書いてあるわ」
先生はからからと笑います。昔は古い窯場にこっそりと忍び込んで、拾った陶片を壊しては、そのつくりかたを学んだものだというのです。ぼくはその冗談ともつかない話に笑いながら、先生の好奇心と意欲に凄みを感じたものでした。
その方法論を、先生は一枚の小皿でぼくらに移植してくださったのだと、ぼくは小皿のへりを曲げながら、はたと思い至りました。創作の感動、それが「?」から生まれるのだと、教えられた瞬間でもありました。

 

太陽先生に「300個挽くのじゃ」と申しつけられた小皿は、結局技術不足から50しか挽けませんでした。しかしそれを工房に持ち込むと、先生はほがらかにシワを開いてヨシヨシとうなずきました。そして「今度はこれに絵付けをするのじゃ」と、唐津の鉄絵の技術まで教えてくださいました。ぼくは恐縮しきって、今度こそは、と気合いをみなぎらせつつ筆を走らせます。しかし唐津ふうの絵付けはヘタウマに味を見いだすのです。ぼくの傍らには、だらしなく脱力した感じのバカ絵皿がずらりと生み出され続けました。
絵を描き終えると、今度は釉薬掛けです。釉薬とは、簡単に言えばガラスを溶かしたもので、これが器にコーティングされているために、土くれは水分を吸収しないで食器として機能するのです。先生の釉薬は、自ら拾ってきた長石や焼いた灰で調合されたもので、ぼくの挽いた歪み皿にまとわせるにはもったいないような秘伝じみたシロモノでした。しかし先生は、それを惜しげもなく使わせてくださいます。半年間の素人たちの働きっぷりと勉強っぷりをじっと見ていてくださったのでしょう。ぼくらは愚かな弟子として認められたのかもしれません。その信頼に応えるためにも、今度の窯焚きは絶対に成功させようと心に誓いました。
山の上の登り窯では、先生の跡継ぎである息子の炎さんが窯詰めをはじめていました。登り窯は三室が連なった連房型で、いちばん前が焚き口の付いたアナ窯、まん中にドーム型の朝鮮式の窯、最後尾にカマボコ型の窯が続いています。そのために世にも奇妙な形をしています。それぞれの窯に特徴ある焼き方を担わせたかったのです。焼き締めて灰をかぶせたい(自然の釉薬になるのです)茶陶系のものは前の窯に、片身変わりなどの特殊な効果を得たいものはまん中の窯に、素直に焼きたいものは後ろの窯に入れるのです。
窯づくりを手伝った者は、各々自作品を持って集まり、得たい効果や確保したい場所でケンカをしつつ、窯詰めを進めていきました。その数、全部で一千点。気の遠くなるような作業が夜を徹して行われました。
そしてついに窯焚きです、と思いきや、まだやらなければならない作業が残されています。ぼくらは学校やレンタル窯で、電気やガスの力に頼り切った焚き方(それはスイッチポンだったり、コックを一ひねりといったやり方でした)を覚えてきました。しかし登り窯はそうはいかないのです。まず薪づくりからはじめなければなりません。ぼくらが築いた窯は、最も原始的な形態のものなのです。しかしそれこそがぼくらの望んだものでした。
薪つくりは、木材の確保からはじまります。ぼくらは窯詰めと平行して、廃材の集積場に足を運び、電柱ほどもある丸太の古建材をチェーンソーで輪切りにしました。それをトラックに満載して工房まで運び、さらにそこから一輪車に乗せて山の上の窯まで運び上げます。そして薪割りです。オノを高々とかかげ、渾身の力で振り下ろしても、刃はねっとりと湿った木材をひと噛みして弾むだけでした。それを何度も反復するうちに、ようやく木はまっぷたつに割れます。丸太は半身になり、徐々に木っ端に割かれていって、薪という名を与えられました。
オノを数百回と叩きつけ、その成果として薪がうずたかく積まれた快感に酔いかけると、しかし山の麓に次の便が到着し、輪切りにされた丸太が転がされる音がしました。いったい窯はいつ焚けるのでしょうか?煉瓦からバリをこそげ取っては積み上げていたあの頃に感じた疑問が、再び脳裏に蘇ってきます。しかし、窯はついに焚かれるのです。

 

念願の登り窯が完成して、ついに初焼成の日を迎えました。築窯にたずさわった関係者たち(みんな陶芸学校の生徒です)は、窯がまだ形にならない間、密かに作品をつくりためていました。みんなこの日を待ちに待っていたのです。その抑圧されたパワーは並みのものではなく、作品総数は一千を数えました。
持ち寄られた作品群は、登り窯の周囲を足の踏み場もないほどに埋め尽くしました。しかし三つのこぶのように連なった房(ぼくらがつくったのは三連式の登り窯でした)は、作品を片っ端から飲み込んでいき、一晩がかりでそれらをすべて平らげてしまったのです。なんと巨大なものをつくったものだと、改めて思いました。それは半年の歳月と、汗と労力、そして陶芸家としての誇りをかけて築かれたものなのです。いい作品を焼き上げたいという一念が、この巨大物体を出現させたのでした。
太陽センセーの手によって、窯神様にお神酒が供えられ、窯が浄められました。いよいよ火入れです。
火は、最初は焚き口のすぐ外で、細木を集めただけの小さなたき火のように灯されました。その火先が、やがて窯の内部に導かれるように吸い込まれていきます。たき火は徐々に大きく、そして焚き口に近付けられ、吸い込まれた炎は窯内をあたためます。こうして焚き口から煙突までの道をつくっていくのです。ようやく窯の中に火が入るのは、数時間も後のことでした。
窯の中に火が入っても、しばらくは細木だけでゆっくりゆっくりと温度を上げていきます。作品から完全に水分を抜かなければならないのです。晩秋の美濃の山奥は、すでに底冷えの季節です。炎を大きくしたいとはやる心を押さえて、最初の一晩を凍えながら過ごしました。
翌朝から、徐々に温度を上げはじめました。薪を斧でガシガシ割り、焚き口からひょいひょいと放り込むと、炎は面白いように反応してくれます。窯内に設置した温度計の数値はぐんぐん上昇し、焚いているぼくらもそれにしたがって高揚していきました。
900度を越えると、ついに攻め焚きです。薪というよりは丸太と言えそうな木材を、焚き口に突っ込んでフタをするようにします。燃料の補給と、吸入する空気量を押さえる作業を、同時に行っているわけです。こうして酸素の供給を制限することによって、窯の内圧が高まります。すると窯に空いた穴という穴、すき間というすき間から、いっせいに炎がこぼれ出てきます。まるで「酸素をくれ〜」と、炎が舌を伸ばしているように思えます。温度が上がるにしたがってこの現象は顕著になり、1100度を越えると、巨大な炎の大きさを抑え込む小さな窯が今にも破裂するのではないか?と思えるほどです。しかしぼくらがつくった堅固な窯は、作品が焼き上がるまで崩壊することなく、しっかりと炎をその肋骨の中に閉じ込め続けました。芯まで冷え込む初日の夜とはうって変わって、最終日は熱さとの闘いでした。高温が額を焼き、軍手を焦がし、汗まみれでぼくらは闘い続けました。
そしてそれは終わりました。凶暴な炎がだんだんと火勢を弱め、やがて柔らかい熾きになっていく過程を眺めながら、ぼくらは疲れきったからだにビールを流し込みました。静かな夜は、ぼくらをからっぽにしました。歓びと充実感は、成就感とそれに伴う虚脱感に追いやられて、ぼくらをひたすら無口に、そして涙もろくさせました。
翌週、ようやく冷えた窯から作品が出されました。出来のほうは上々とはいかなかったけど、ともかく、ぼくらはやりきったのです。そして、次の目標をさがすのが大変だ、と考えました。しかし、いやそんなことはない、と手の中の作品が言っていました。へんてこりんに焼き上がった彼はぼくらに、山積みの課題を突き付けていました。

 

念願の登り窯の窯焚きが終わって、しばし美濃の山を離れました。あとは卒業までの残された時間を、瀬戸の訓練校での陶芸修行に打ち込むのみです。冬が深まる中、スカスカと風の吹き抜けるプレハヴの作業場で、ぼくらは一日中ひたすらにろくろを回し続けました。
ちょうどぼくらが学んだこの年は、学校のすぐ裏で「愛・地球博」の設営が進んでいました。その縁もあり、ぼくらはその運営者から大量の器制作の仕事を受注することができました。博覧会場のスペースの一角にお茶室をつくるので、そこで出すお茶道具一式を訓練校の生徒に一任したい、という、信じがたいような冒険・・・いや太っ腹な発注です。願ってもないことです。例年なら、気が緩んで倦怠感が蔓延するというこの時期に、ぼくらはフル回転で制作に望む光栄に浴することができました。
ぼくらがそれまでに学校で学んだことは、「器が美しく幾何学的に整っていること」「大きさや薄さなど、質がそろっていること」「早く、正確に仕上げること」といった職人の技でした。しかしお茶道具は個性の世界です。今までにつちかった技術を、はじめて思う存分に創作につぎ込める喜びに、ぼくらは沸き立ちました。しかもお茶道具については、幸運なことに築窯に通い詰めた先の陶芸家・太陽先生に毎回講釈を受けていたので、この受注は絶好の腕試しの機会となったのです。ぼくは腕を振るいました。
まずは抹茶碗を何種類かつくりました。この地方の伝統的な焼き物、黄瀬戸、織部、瀬戸黒。また他の地方の、唐津、萩、楽、伊万里、高麗もの、唐物まで、すべて「〜ふうのもの」がつくものの、多種多彩な茶碗ができあがりました。陶芸の世界には「写し」という特殊な文化があります。どれだけ先人のものをマネしても、(あまりに個人的なデザインの模写はまずいでしょうが)著作権に引っかからない、叱られない、ロイヤルティーが発生しない、という不文律です。陶芸家は、先人の名物を必死に写し取り、探り、それに迫ろうとするのです。そうして腕を磨くというのが文化として存在するわけです。
ぼくらも桃山時代につくられた名品の写真をろくろの前に広げ、それをお手本にろくろを回しました。しかし皮肉なことに、上達した腕前が邪魔をして、こざかしいほどにうまいものが挽けてしまいます。眼前の写真の中にたたずむ名品の多くは、ヘタウマ、と呼びたくなるほどの放埒さで挽かれていて、ほとんど前衛に近い印層を受けます。ろくろの初心者が挽く、あのひずみ、あのだらしなさ、あの無定形を、彼らは指とろくろとを自在にコントロールして、メリットとして自作品に反映させるのです。それらは、ぼくらが学んだ無機質的完成度とは対極にある、運動、内圧、フリーさ、だけど堅固なたたずまい、というものを持っていました。個人的宇宙と言いたくなるような作品世界でした。おそろしく深く実体するその存在感に、ぼくらは小手先の技術で上手に挽けた自分の茶碗に満足することなどできませんでした。
太陽先生に挽き方をたずねにいっては、また学校でろくろを回し、学んでは吐き出し、覚えては迷い、そうしてぼくらは、茶碗から建水、花入れ、水指と、無鉄砲に突き進んでいきました。
そうこうしてヨチヨチと進むうちに、土は手になじみだし、感覚は回転に追いつきはじめ、徐々に成長というものが実感できるようになりました。雪が降ったり、雪が溶けたりを繰り返す中で、風に春のにおいが混じるようになりました。いよいよ卒業が間近に迫っていました。

 

卒業が目前に迫っていました。職業訓練校には「卒業制作」というものはありませんが、クラスの誰もが、ここに籍を置いた証を集大成という形で残そうと意気込んでいました。粘土は使い放題、ろくろも巨大な職人仕様、時間もふんだんに費やせる・・・こんな環境はこれから先、とても期待できないのです。この恵まれた設備で、今しかできないことをやっておこう、というわけです。みんな最高傑作を期して、自由制作に乗り出しました。
隣の町で開かれる「愛・地球博」のお茶室の調度品をつくらせてもらった関係で、お茶の世界に興味を持つ者が多くいました。彼らは桃山時代につくられた水指や花入れなどを目標に、古式ゆかしい世界に個性を織り交ぜて制作しました。また日本式の侘び寂びでなく、クラフトと称される整った洋食器を志す者は、磨き上げたろくろ技術で、寸分の狂いもなく幾何学的な形を挽いてみせました。細工の好きな者は、凝りに凝ったデザインの作品を、一日中こつこつと顕微鏡的緻密さでいじくり回していました。
ぼくは周囲から「バカ」と呼ばれたいタイプなので、クラスで誰も試みようとしないほどの巨大な鉢をろくろで挽こうと心に決め、制作に取りかかりました。粘土置き場から「これ以上はろくろに載らないだろう」というだけの粘土を持ち込みました。一抱えほどもあるその土塊の重さを計ると、17、5キロありました。それを練るときは一回一回ジャンプしなければならず、ぴょんぴょん飛び跳ねながら自分でも笑えてきました。こんなものが本当に挽けるのか?と心配になりましたが、気合い充填、ろくろに向かいました。
ろくろを挽くには、まず土殺しといって、土を正確な円すい形にまとめ、回っていても静止しているように芯を出さなければなりません。その時点でほんの少しでも中心がずれていれば、器が完成したときに口縁が波うってしまったりして、正円に挽けないからです。最初がすべてなのです。土殺しは、ろくろ技術で最も難しい作業でした。しかし一年の月日は、ぼくの技術を飛躍的に伸ばしてくれていました。大汗をかいて格闘するうちに、大きな土塊はやがてピタリと芯を食って、高速回転の中で小揺るぎもせずに落ち着きました。中心に穴を空け、何センチもある厚い厚い器の壁を薄く薄く伸ばしていくと、驚くほど背は伸び、口径はひろがりました。午前中いっぱいを使って大胆かつ繊細な仕事を施し、ほんの少しの歪みもなく挽き上がりました。出来上がったものはひとりではかかえきれないほど大きく、赤ちゃんの産湯にも使えそうです。ぼくは毎日の研鑽が、ちゃんと形を持って自分の中に結実していることを確認して、ほっとしました。一年をかけて、ぼくは更新されたのでした。
「卒業制作」が終わると、今度は「修了試験」がありました。半日がかりで、決められたサイズの器を何個つくれるか?というのが試験でした。形は、入学当時に悪戦苦闘した「切っ立ち湯呑み」でした。当時、先生のデモンストレーションでその作り方を見たときは、とてもつくれそうにない、と思ったものでした。その職人芸が、今や完全に自分のものとなっていました。4時間半という時間で70個がノルマです。土練りや土殺しの時間も加味すると、一個あたり2分ほどで挽かなければならない計算です。試験前は不安にかられました。ところがやってみると、驚くほどやすやすと挽くことができました。終わってみれば、完成数107個はクラス二位。しかもその断面はクラスで最も薄く、下から上までが完全に均等な厚みでした。翌年からいきなり陶芸教室をはじめなければならないというプレッシャーは、一年間まったくたわむことを知らないテンションを導き出し、ぼくに力をつけてくれたのだと思います。しかしまだまだ半人前。初心を忘れず、指導していただいたことを胸に刻み、瀬戸の町を後にしました。いよいよ東京で、自分の価値が試されるのです。

 

 あの窯焚きからちょうど一年ほどがたちました。ぼくは再び太陽センセーの前にいました。信じられないほど、センセーはいい顔で微笑んでいました。こんな死に顔は見たことがない、とぼくはしみじみ感じ入りました。微笑みというよりも、それは笑顔だったのです。きっとセンセーの生涯は楽しさに満ちていたに違いありません。棺の中のセンセーは、まるでいたずらに成功した子供のような笑顔でした。
 ぼくは訓練校を卒業すると、東京に戻って工房を構え、念願だった陶芸教室をはじめていました。半年間はその準備と、開業してからは運営のほうに忙殺され、美濃に住むセンセーの顔を拝見に伺うこともままならない状況でした。それでも機を見ては手紙を書きました。すると必ずセンセーははしゃいだ声で電話をくださいます。元気な声と重みのある言葉、そして品位あるエロ話は相変わらずでした。しかしその年の秋頃になると急に声に張りがなくなり、弱音が漏れるようになりました。どうしたことかと思い、息子の炎さんに事情を聞くと、「すい臓にガンが巣食っているのが見つかった」ということでした。たまたま別の検査を受けたら発見できたのでラッキーだった、というので、ぼくは大したことはなかろうと思っていたのですが、正月に挨拶に伺ってがく然としました。
「よう来たの」
と言うセンセーは、もう歩けないほどの衰弱ぶりだったのです。食事制限があるというので、ぼくは食べ物でなくセーターをお見舞いにしたのですが、そのそでに腕も通せません。窯焚きのときに雑魚寝する場所として使われ、酒瓶やビール缶が散乱していた部屋は、きれいに片付けられ、その中央のテーブルには豪華すぎるおせち料理が並んでいました。
「なんでもお食べ。わしゃもう食えんで」
 そのひと言を絞り出すにも一苦労するセンセーの姿に、ぼくは胸が詰まりました。しかしその眼光は相変わらずで、器づくりでわからんことがあったらなんでも訊いとけ、今のうちじゃ、と言ってくださいます。そこでぼくがあれこれ質問すると、しぼみきったからだを乗り出して答えてくださいます。本当にこのひとは陶芸が大好きで、人間が大好きなんだ、と感じました。
 雪の残る窯場を、ぼくはこの場所をはじめて訪れたツマに案内しました。相変わらず窯出しを終えた陶器が散らかっています。その中に、自分のつくったものを見つけました。この場所で修行をしていた当時につくり残しておいたものを、炎さんが焼いてくれていたのです。今となっては笑ってしまうようなへっぽこな形に、ぼくはなつかしさといとおしさを覚えました。こんなド素人に、よくセンセーのような方がつきあってくださったものです。あの頃はセンセーを何度がっかりさせたかわかりません。あまりの下手さに、またバカさ加減にあきれられてもいたと思います。ただ、ある日センセーにこんなふうに質問されたことがありました。
「毎日ろくろを挽いておるか?」
 ぼくは、はいっ、と即答することができました。ぼくもセンセーを見習い、一年間一日も遊ぶことなしにろくろを挽き続けたのです。仕事量にだけは自信を持っていました。そのぼくのひとみに見入って、センセーは「ヨシヨシ」と天使のような笑顔を浮かべてくださいました。
 棺の中の笑顔は、どこにも影が差していない完全な笑顔でした。あのときみたいだ、と思いました。満足満足、おなかいっぱい。俺は休むが、おまえは精進を怠るでないぞ。そう言われているような気がしました。
 花に満たされた棺は閉じられ、葬儀場の窯の炎で焼かれました。陶芸家はそのとき、器の気持ちを知ったかもしれません。

 

   


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